はじまり
1950年、漁師であった大畠正義が、妻とともに、佐伯市霞ヶ浦の湾で核入れ用の母貝を育て、佐伯市に戦後進出してきた三重県の真珠会社に納めていたのがはじまりです。その後、真珠会社に勤めていた大畠儀一郎と、核入れ技術者であった三重県出身の美穂子が結婚し、会社勤めの傍ら家業で真珠養殖を営みます。
オーハタパールジュエリーの誕生
1967年、大畠儀一郎が独立起業し、閑散期である冬を中心に、妻の美穂子が手作りしたアコヤ真珠のアクセサリーを海外から来られた外国船の船員に販売したところ、日本の宝石として船員の奥様へのお土産に喜ばれたことが、オーハタパールジュエリーの原点となりました。
佐伯湾と真珠養殖
真珠養殖は、世界で初めて真珠の養殖に成功された御木本幸吉氏はじめ、西川藤吉氏、貝瀬辰平氏の技術開発によって生まれた、3名の日本人パイオニアの努力と功績の賜です。戦後は外貨獲得の為増産を目指し、三重県から西へと産地が広がっていきました。日本ではダイアナ妃が身につけていたことで真珠が大ブレイクします。
佐伯湾はリアス式海岸で大きな清流「番匠川」が流れ込み、アコヤ貝の餌となるプランクトンが豊富で水温もアコヤ貝の養殖に適していることから漁場として栄えました。
佐伯市の夏祭り等で流れる「佐伯音頭」には「真珠筏は入り江の宝」という歌詞があるくらい一時期は佐伯市の産業の一つでした。
平成の感染症の時は「大分県真珠養殖漁業協同組合」組合長だった初代が、大分県の組合員全員で決まり事を作り苦難を乗り切りました。その一つが国産アコヤ貝での真珠養殖。色合い豊かな真珠を求めて稚貝から母貝養殖まで行っています。今では毎年行われる全国真珠品評会に大分県の養殖業者の入賞が常連となるまでになりました。
オーハタパールの仕事
1)真珠のもととなる貝殻を丸くした「核」を挿入するまでに 稚貝・母貝と呼ばれるアコヤ貝を2年から3年かけて養殖します。
2)「核入れ」に適した大きさになった母貝は秋から冬・春へと日本の四季を利用し「抑制」と呼ばれる核入れに適した状態にする作業をします。
3)春になり水温が上がり貝の状態が出来あがってから「挿核」手術が始まります。 「核」と呼ばれる淡水産の貝殻を丸くしたものと、「ピース」と呼ばれる肉片をアコヤ貝の生殖巣に挿入します。
4)1ヶ月ほど波静かな湾内で体力を回復します。その後ネットの入れ替えを行い沖の筏に移されます。ただ吊るしておけばよいだけではなく、貝の表面の付着物を落とす作業や寄生虫を駆除する作業、また赤潮や台風などの予期せぬ災害の対応等、気の抜けない作業が続きます。技術の良しあしはアコヤ貝の生存率や真珠の品質を左右する要因の一つですから熟練した技術者を育てる事が大切です。
5)自然環境と闘いながら育ったアコヤ貝はやがて「浜揚げ」と呼ばれる真珠の取りだしの時期を迎えます。養殖に携わる人たちの汗と努力の結晶が誕生します。 この時期みんな不安と期待に胸を膨らませながら作業します。
6)誕生した真珠は大きさ・品質などで「選別」され皆様のお手元に届くまでには、 また「加工」という長い工程に入っていきます。
SDGsへの取り組み
オーハタパールや大分県の真珠養殖業者は、真珠を取り出した後の貝殻を貝ボタンの材料をはじめ、肥料や漁礁などとしてそれぞれに有効活用してもらっています。
地形・水温・プランクトン等自然に支えられて真珠養殖は行えています。海の環境を守り、次の時代につなげていくことは私たちの使命と存じます。
二代目 大畠美津子